ブックタイトル秋吉台国際芸術村 Akiyoshidai International Art Village レジデンス・サポート・プログラム

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概要

秋吉台国際芸術村 Akiyoshidai International Art Village レジデンス・サポート・プログラム

6「 trans_2016-2017 この土地の未来 “The Future of This Land”」について 毎年、この事業における成果展覧会を見ているが、今年は審査員として関らせていただく事となった。そのため今回招聘されたアーティストたちがどのような作品を展示しているのかとても期待してオープニングに参加した。この秋吉台国際芸術村(AIAV) でのアーティスト・イン・レジデンス・プログラム(AIR) は、長らくテーマを設けずにAIR 事業を行って来た経緯があるが、近年では「この土地の魅力」として国内外から参加したアーティストにAIAV がある土地そのものに目を向けるよう促すことになった。主催者側からのこのような制約は、束縛を嫌う傾向がある前衛的な芸術表現にとって、ある意味とても不自由な制約となり、アーティストの自由な発想を束縛してしまう危惧も予想されていた。しかしながら、昨年度までの成果展覧会を見たところ、そのような危惧は杞憂であり、むしろある一定のテーマがあるおかげで、現代美術表現における国際的均一化から逃れることができている作品が生まれているのではないかと感じた。さらに本年度は「この土地の未来」と題し、地域的な魅力のみならず、将来のこの地域の未来についても言及するテーマとなっていた。 今回の6 名の参加アーティストのことに触れてみよう。3名は公募による選出で、残りの3 名は海外の連携施設からの推薦である。まずロギョン・イ( 韓国) の作品は悠久の時の流れの中で、個人的な採掘活動をすることを“パーソナルマイン” と呼び、宇部市にかつてあった長生炭鉱の「長生」という言葉から様々な意味を見出した。「長生」は囲碁の決まり手の一つで“奇跡的な引き分け” を意味するものであり、このキーワードを作品に生かした。これは日韓の不幸な国家間の出来事を振り返ることから、将来あるかもしれない“奇跡的な引き分け”をほのめかすもので、祈りにも似た内容を持った奥深い作品となった。 ヘリ・ロ( 韓国) とヨウ・ルー・チン( 台湾) の両作品はインスタレーション作品とパフォーマンスを合わせ、身体的な動きと断片的なオブジェや音からストーリーを想像させるものであった。ヘリ・ロの作品は、ルーブ・ゴールドバーグ・マシンの仕掛けのような繊細なインスタレーションに自らのアクションやボイス・パフォーマンスを付加することで、オブジェがもつ潜在的な機能に様々な選択肢があることを気づかせてくれた。また、ヨウ・ルー・チンの作品はさらに演劇的な要素を持つものであった。オープニング・アクトとして行われた自動車のバンパーがオブジェになっているインスタレーションの置かれた部屋と、芝生でできた森につながる野外桟敷を舞台にしたパフォーマンスは、ローカリティー( 自然・人・仕事における) とも関連し、ユーモアを交えながら人工と自然の対峙あるいは接続/ 連続性について改めて考えさせられる内容となっていた。  イルス・リーンダース( オランダ) とカステヘルミ・コルピヤッコ( フィンランド) は両者、文化人類学や科学、哲学などの内容を援用し、写真や映像、オブジェなどを素材として使ったインスタレーション作品を得意とするアーティストたちである。イルス・リーンダースの過去の写真作品では、都会の既存の風景に人を意識的に介入させ、その存在感を絶妙な構図で作品化していたが、都会的風景の少ない山口県や美祢市ではどのような展開になるのか興味があった。今回の滞在では「鳥のダンス」というテーマでパフォーマンスの実験を行っており、鳥の群が飛ぶ時にどうしてお互いに適切な距離を保てるのかについての科学的な見解と、武道などにも含まれるであろう、日本人が持つ人との独特な距離の取り方を結びつけるという意外性のある創造的リサーチの結果としての作品となった。一方のカステヘルミ・コルピヤッコも意外なところからアイデアの源泉を得ており、芸術村の宿泊施設周辺から非常に特異な陶器の投棄物(シャレではないが)、その断片群を採取して「触る」というキーワードのもとで、写真や映像を使った謎めいたインスタレーション作品を造った。誰が、何のためにそれらの陶器を捨てたのか、よく見れば見るほど結論は断定できず、曖昧になってくるところが面白い。